260722
孤独である。あるいは、孤独であることについて考えている。遡ると、2021年ごろから新たなコミュニティと交流する機会が増え、自分自身のセクシュアリティやジェンダーを茶化したり誤魔化したりする必要がないのだとようやく理解することができ、ゆるやかにゆるやかに自分の世界は開いていった。けれども自分らしさを取り戻すと決めたら、私の中の女性はいつしか、女性であることが難しくなった。この社会的な身体のうちに女性と男性という両方の性があり、社交の中でそれを表現したりしなかったりしている、ということをそれとして認めたそのときから、この身体は何者でもないものになった。2024年から日記を書きはじめた。そのうち、日記という閉じた場所で「わたし」という一人称を使うこともどこか不自然だと思うようになった。この違和感が強くなればなるほど、主観的な文章を書くこともまた難しくなった。俺と僕とわたしと私(わたくし)を行ったり来たりする。「私(わたくし)」ならば性別は限定されないような気がする。それでも違和感があるときは「自分」を使う。どれもいまいちしっくりこない。その点で英語は融通がきく。"I"には社会的な概念と結びつく特定の性別が無い。
SNSでは似たような悩みを抱える人のポストばかりがおすすめされる。からかいの的になっているものも少なくはない。そのうち見かけるもののすべてに悩まされるようになった。私の自分らしさは社会に保障された概念ではなく、盤石でもなかった。
人と人との間にあるときこそ孤独である。ひとりきりで独り言をつぶやいているときのそれは孤独ではない、と思う。ただひとりきりであるだけ。この日記をだれひとり読むことがなくても、それは寂しいことではない。なぜ孤独であると思うのだろうか。自分自身が自分らしさという主張をし続けなければいけないという強迫観念にほかならない。社会の中で本当の孤独を浮き彫りにされることが寂しくて、ひとりきりであることを選んでしまう。