260726
FUJI ROCKでMassive Attackのライブが配信されるというのでお酒を飲みながらだらだらと夜まで画面にへばりついていた。GREEN STAGEのヘッドライナーを務めるMassive AttackのVJ演出はパランティア批判に始まり、次々と「耐え難い世界を告発する」。あまりにもけだるく甘やかな音楽で包まれた劇的な体験。「政治性の強さは置いておいて」という枕詞で語られるさまざまな感想に、思うところが多くあった。なんとなく紐づくようにして思い出した本の内容をここに引用しておく。
現代美学では崇高なものとは「表象不可能なもの(呈示不可能なもの)」であると言われます。20世紀後半のフランスを中心に論じられてきました。「表象不可能なもの」という概念で指し示される内容は、近代の崇高論とは力点が異なります。それは畏敬や尊敬の念を引き起こすものというより、むしろ私たちにとって途方もないほど暴力的で破壊的なものです。もっとも極端な例が、第2次世界大戦中のホロコーストです。この未曾有の惨事をどのように描いたとしても、現実の歪曲になってしまうことは避けられません。特定の人々だけに責任をなすりつけることになったり、犠牲になった人々への冒瀆になったりしてしまいかねません。ましてや感動的な物語に描いて美化することは、倫理的に許されることなのでしょうか。ホロコーストに関するふたつの対照的な映画があります。スティーヴン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』(1993)と、クロード・ランズマン監督の『ショア』(1985)です。(中略)『ショア』は、ホロコーストについては何も描くことができないということを提示した映画です。実際にランズマンは、ホロコーストを物語に回収してしまう『シンドラーのリスト』を厳しく非難しました。ファシズムとホロコーストは、近代ヨーロッパが目指した自由で平等で啓蒙された世界という幻想を打ち砕きました。戦後に生きる私たちはもう、これまでの芸術のように世界を美しいと寿ぐことはできません。とくに『ショア』以降、このような問題意識が共有されるようになりました。なおドイツの哲学者テオドール・アドルノ(1903〜69)の有名な言葉に、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というものがあります。これも同様の立場を表明したものです。 井奥陽子. 近代美学入門 (ちくま新書) (p.240)
同じ書籍からもうひとつ。
ドイツの映画監督レニ・リーフェンシュタールは、ナチスのプロパガンダ映画を担当したことで、戦後は激しく糾弾されました。他方で、彼女の代表作『オリンピア』(第1部「民族の祭典」、第2部「美の祭典」1938)は、その映像美が高く評価されています(図12)。この映画は、ヒトラー主導のもと国家事業として開催されたベルリン・オリンピックを撮影したものです。作品の美しさと、ナチスへ協力した責任をどう捉えるべきか、こんにちに至っても議論が続いています。私はここでリーフェンシュタールの作品について評価を下したいわけではありません。ただ彼女自身の発言からすると、リーフェンシュタールは美しいものを作ることだけを追究し、政治どころか、自分の作品がもつ政治的な機能にさえ無関心でした。そしてそのことに何の罪もないと考えていたようです。美や芸術に携わる人は、どのような場面であっても政治や道徳に無関心でいてよいのでしょうか。美を理由にすれば何でも正当化されるのでしょうか。意見が分かれるところかと思いますが、私はそうした態度は是認しがたいと感じます。もちろん創作する側だけの問題ではありません。ある政治家や政党をただポスターや服装が格好いいからといった理由だけで支持することは、現代でも見受けられることでしょう。美に耽し、美だけを追い求めることは、ときに取り返しのつかない破滅を招くことになります。19世紀的な価値観を前提にして美を素朴に称揚することで、他者の生命や尊厳を脅かすようなことはあってはなりません。そのことを私たちはリーフェンシュタールの例から学ぶべきではないでしょうか。井奥陽子. 近代美学入門 (ちくま新書) (pp.187-189)